[QT一言アドバイス] 2020年6月27日(土)

詩篇 132:1〜18
「主が居られる場所に神の満たしと救いがあります」

ーみことばの黙想ー
神殿に向かうときに賛美する都上りの歌が続きます。ダビデが主を思い、神殿を求めた様子や主がそれに応えられる様子を歌にして主を賛美しています。

1〜10節
ダビデは主を栄光を返すために苦労しました。もちろん主が助けてくださったから、その労苦を担うことができたわけです。しかし、ダビデ自身も主を求め、サウル王の未熟さや自分自身の未熟さのために、大変苦労しながら、神殿建設の準備を進めていきます。神殿を完成させるのは、息子ソロモンですが、その下準備を全て整えたのは、ダビデによることです。
一方で、注目したいことは、どれほど、主のためにと努力しても、主がお望みでなければ、その努力は意味のないものに待ってしまいます。自己満足で準備しても、そこに主が居られなければ虚しいものとなってしまいます。だからこそ、主がいらっしゃることを心からダビデは求めているのです。
主がいらっしゃれば、荒野であれ、王宮であれ、神殿であれ、そこが祝福の場所となります。たとえ、どんなに強大な軍隊、経済力や知恵を持っていても、主が守ってくださらなければ、それらは廃れていくことが間違いがないからです。
そして、この主を待ち望む思いは、預言的な告白までも引き出しています。油注がれた者、選ばれた人、のちの時代の王たちのことでしたが、本質的にはイエス様を意味します。

11〜18節
このように主を求めているダビデに対して、主が応えられます。
神ご自身も、ダビデが求めていることが、基本的には主が望まれることであったため、ダビデに対して、約束の言葉を語りかけられます。
ダビデの王家を長く続けるという約束、これは、のちにダビデの子孫から救い主が王として来られることを約束しているものです。
ダビデが選ばれたのは、偶然ではなく、霊的な必然性があったと考えます。それは、ダビデが正しいから選ばれたのでもなく、主が積極的に取り扱わ亜っていただけるからです。人が懇願する以上に神様が人のことを思ってくださることに感謝があふれます。主は今日という一日々を生かしてくださる方です。主の祝福を受けるなら、今日の食べ物も、与えられるでしょう。
今、私たちの問題は、主を受け入れるかどうかです。主を受け入れた人の特徴は、主がいらっしゃることを用意し、主の働きに喜びを感じます。

ーみことばの適用ー
今日の詩篇のように、私たちも神様のみこころを知り、主を迎え入れていけるように、今日も主と豊かな交わりをし、実際に準備します。

ー今日の祈りー
主が共にいらっしゃるという平安が、私を通しても、周りの人に至るまで、あふれさせてくださいますように。

[QT一言アドバイス] 2020年6月26日(金)

詩篇 130:1〜131:3
「祈って待ち望むのがクリスチャンの信仰です」

ーみことばの黙想ー
神殿に向かうときに賛美する都上りの歌が続きます。今日の二つの詩篇は、主を待ち望む賛美です。都上りの歌は基本的には主への感謝と喜び、期待があふれる賛美です。

130篇
歌の作者は、どん底の状況の中から主を呼び求めています。
私たちは、状況が悪いときに、どのような姿勢を神に向かって呼び求めるでしょうか?
一番悪いのは、主の助けが必要なのに呼び求めないことです。
次に良くないのは、主に対して、反抗的に呼び求めることです。多くの問題は、罪が原因であるのですが、神に責任転嫁して、自分の気を紛らわすということです。しかし、主を意識しているという観点では、比較的マシでしょう。出エジプトのイスラエルの民が象徴的です。
次に比較的良いのは、単純に主に期待する姿勢でしょうか。辛くても、主がなんとかしてくれるという希望がある姿勢です。一見、良さそうに思えますが、一つ問題があるのは、自分の状況を棚に上げて、主だけを見ている状況で、下手をすると、状況さえ良くしてくれるのであれば、なんでも良いので、求めるという偶像礼拝の危険性を含む態度です。
最も理想的な姿勢は、自らの愚かさや問題を認識した上で、悔い改め、なおかつ、主だけに哀れみを求める姿勢です。一見、都合の良い姿勢に見えなくもありませんが、本当に霊的な状況がわかっていれば、今日の詩篇の作者のように、自分がどん底である状況がわかります。すでに、人の努力で取り繕う段階ではないのです。
しかし、主は、私たちの不義には目を止めず、さばきではなく、主を呼び求めるものをゆるそうとされます。赦しの力で私たちは主を恐れずにはいられません。それは驚くほどのことで、単純な権威に対する恐怖とも異なる尊敬です。どんなに暗い中でも、夜回りが夜明けを心待ちにするように、求めずにはいられない救いです。
従って、主を求めるように宣言していきます。

131篇
ダビデによって、歌われたと明記されている賛美です。ダビデはイスラエル史上最も主に祝福されたリーダーでした。しかし、彼がそのように祝福されたのは、自分が栄誉を受けているのは、主が祝福してくださるということを、時には失敗を通してでさえ、よく知っていたからです。
最高のリーダーでもあったダビデでさえ、幼子が母親を求めるように主を求めずにいられないほどに、主が必要不可欠であることを賛美しています。
今日の私にとっては尚更、主が必要です。主を待ち望むことを民に呼びかけている賛美です。
ここで、もう一つ、主を待ち望むときに重要なのは、“待つ”ことです。

ーみことばの適用ー
自分の都合ばかりで、主を求めるのでなく、砕かれた悔い改めを持って、主にだけ頼ります。苦しい時も、主が助けてくださる希望をもって歩みます。ただし、主の助けを待ちます。

ー今日の祈りー
私が自分勝手にあゆまず、主を待ち望むことができるように、また、隣人も主を待ち望むことができるように助けてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月25日(木)

詩篇 129:1〜8
「悪しき者は神の民に勝つことができません」

ーみことばの黙想ー
神殿に向かうときに賛美する都上りの歌が続きます。今日の詩篇は、苦しみから救い出して下さる主を賛美しています。

1〜4節
中学生のときに、地元から離れた中学に通いましたが、そのときに、クリスチャンのもつ行動パターンが世の同世代と違ったのか、いじめの対象になった記憶があります。そこまで、激しいいじめではなかったと今では思いますが、いつも、正しいことを行おうとする姿勢が周りからかわいくなく感じたのか、変な奴というレッテルを貼られて、相手にしてもらえなかったように思います。当時の自分は、とっつきにくいところもあったとは思いますが…。
そこで、多くの信仰者たちの祈りの支えもあり、乗り切れましたが、それは、相手と戦ったわけではありません。むしろ、いじめられた原因でもあった、正しいと思えることを徹底しました。成績やスポーツなどの競走では最善を尽くしました。正しいと思えることでは、一歩も引かず、一方で、自分で間違ったと感じることは、素直に謝るようにしました。自分で間違ったことはすんなり謝るのが良かったのか、関係は改善されていきました。
クリスチャンは神様の前に正しく歩もうとしても、それがなんだか気に入らなく感じられてしまうこともあります。それでも、主は正しい方です。主によって示されることも正しいことでしょう。悪しき者の道はどんなに楽で手っ取り早く見えても、やはり、続きません。主は守り、正しいことを行ってくれます。主に信頼して歩みましょう。

5〜8節
129篇はイスラエルにというよりも、神に逆らって生きる者の末路を話しています。
神様は、神を憎み、神の民、方法を憎むものには恥が与えられる方です。神様は悪を野放しにはされません。確かに最初はたくさん生えてきても伸びないうちに枯れていってしまう草のようです。実を結ぶこともありませんし、実を刈り取ろうとするものもいません。神様の御名で祝福しようというものは決して現れません。
主に逆らうというより、自分勝手に生きることは一見楽しく楽に思えるかもしれませんが、長期的に見ると、神様がはっきりとそのような民を退けられることを体験するでしょう。
主は主の民を守り、導かれることを賛美しましょう。

ーみことばの適用ー
主に従わないことはリスクが高いどころか失敗そのものであることを知り、今日も主が守ってくださることを知って、今日困難の中にあっても、主を賛美するようにします。

ー今日の祈りー
わたしの心を主で満たしてください。周りがいかに乾いていても、わたしは主の恵みで潤っていて、周りを潤すものとしてください。そして、主にだけ栄光がありますように。