[QT一言アドバイス] 2020年6月27日(土)

詩篇 132:1〜18
「主が居られる場所に神の満たしと救いがあります」

ーみことばの黙想ー
神殿に向かうときに賛美する都上りの歌が続きます。ダビデが主を思い、神殿を求めた様子や主がそれに応えられる様子を歌にして主を賛美しています。

1〜10節
ダビデは主を栄光を返すために苦労しました。もちろん主が助けてくださったから、その労苦を担うことができたわけです。しかし、ダビデ自身も主を求め、サウル王の未熟さや自分自身の未熟さのために、大変苦労しながら、神殿建設の準備を進めていきます。神殿を完成させるのは、息子ソロモンですが、その下準備を全て整えたのは、ダビデによることです。
一方で、注目したいことは、どれほど、主のためにと努力しても、主がお望みでなければ、その努力は意味のないものに待ってしまいます。自己満足で準備しても、そこに主が居られなければ虚しいものとなってしまいます。だからこそ、主がいらっしゃることを心からダビデは求めているのです。
主がいらっしゃれば、荒野であれ、王宮であれ、神殿であれ、そこが祝福の場所となります。たとえ、どんなに強大な軍隊、経済力や知恵を持っていても、主が守ってくださらなければ、それらは廃れていくことが間違いがないからです。
そして、この主を待ち望む思いは、預言的な告白までも引き出しています。油注がれた者、選ばれた人、のちの時代の王たちのことでしたが、本質的にはイエス様を意味します。

11〜18節
このように主を求めているダビデに対して、主が応えられます。
神ご自身も、ダビデが求めていることが、基本的には主が望まれることであったため、ダビデに対して、約束の言葉を語りかけられます。
ダビデの王家を長く続けるという約束、これは、のちにダビデの子孫から救い主が王として来られることを約束しているものです。
ダビデが選ばれたのは、偶然ではなく、霊的な必然性があったと考えます。それは、ダビデが正しいから選ばれたのでもなく、主が積極的に取り扱わ亜っていただけるからです。人が懇願する以上に神様が人のことを思ってくださることに感謝があふれます。主は今日という一日々を生かしてくださる方です。主の祝福を受けるなら、今日の食べ物も、与えられるでしょう。
今、私たちの問題は、主を受け入れるかどうかです。主を受け入れた人の特徴は、主がいらっしゃることを用意し、主の働きに喜びを感じます。

ーみことばの適用ー
今日の詩篇のように、私たちも神様のみこころを知り、主を迎え入れていけるように、今日も主と豊かな交わりをし、実際に準備します。

ー今日の祈りー
主が共にいらっしゃるという平安が、私を通しても、周りの人に至るまで、あふれさせてくださいますように。

[QT一言アドバイス] 2020年6月26日(金)

詩篇 130:1〜131:3
「祈って待ち望むのがクリスチャンの信仰です」

ーみことばの黙想ー
神殿に向かうときに賛美する都上りの歌が続きます。今日の二つの詩篇は、主を待ち望む賛美です。都上りの歌は基本的には主への感謝と喜び、期待があふれる賛美です。

130篇
歌の作者は、どん底の状況の中から主を呼び求めています。
私たちは、状況が悪いときに、どのような姿勢を神に向かって呼び求めるでしょうか?
一番悪いのは、主の助けが必要なのに呼び求めないことです。
次に良くないのは、主に対して、反抗的に呼び求めることです。多くの問題は、罪が原因であるのですが、神に責任転嫁して、自分の気を紛らわすということです。しかし、主を意識しているという観点では、比較的マシでしょう。出エジプトのイスラエルの民が象徴的です。
次に比較的良いのは、単純に主に期待する姿勢でしょうか。辛くても、主がなんとかしてくれるという希望がある姿勢です。一見、良さそうに思えますが、一つ問題があるのは、自分の状況を棚に上げて、主だけを見ている状況で、下手をすると、状況さえ良くしてくれるのであれば、なんでも良いので、求めるという偶像礼拝の危険性を含む態度です。
最も理想的な姿勢は、自らの愚かさや問題を認識した上で、悔い改め、なおかつ、主だけに哀れみを求める姿勢です。一見、都合の良い姿勢に見えなくもありませんが、本当に霊的な状況がわかっていれば、今日の詩篇の作者のように、自分がどん底である状況がわかります。すでに、人の努力で取り繕う段階ではないのです。
しかし、主は、私たちの不義には目を止めず、さばきではなく、主を呼び求めるものをゆるそうとされます。赦しの力で私たちは主を恐れずにはいられません。それは驚くほどのことで、単純な権威に対する恐怖とも異なる尊敬です。どんなに暗い中でも、夜回りが夜明けを心待ちにするように、求めずにはいられない救いです。
従って、主を求めるように宣言していきます。

131篇
ダビデによって、歌われたと明記されている賛美です。ダビデはイスラエル史上最も主に祝福されたリーダーでした。しかし、彼がそのように祝福されたのは、自分が栄誉を受けているのは、主が祝福してくださるということを、時には失敗を通してでさえ、よく知っていたからです。
最高のリーダーでもあったダビデでさえ、幼子が母親を求めるように主を求めずにいられないほどに、主が必要不可欠であることを賛美しています。
今日の私にとっては尚更、主が必要です。主を待ち望むことを民に呼びかけている賛美です。
ここで、もう一つ、主を待ち望むときに重要なのは、“待つ”ことです。

ーみことばの適用ー
自分の都合ばかりで、主を求めるのでなく、砕かれた悔い改めを持って、主にだけ頼ります。苦しい時も、主が助けてくださる希望をもって歩みます。ただし、主の助けを待ちます。

ー今日の祈りー
私が自分勝手にあゆまず、主を待ち望むことができるように、また、隣人も主を待ち望むことができるように助けてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月25日(木)

詩篇 129:1〜8
「悪しき者は神の民に勝つことができません」

ーみことばの黙想ー
神殿に向かうときに賛美する都上りの歌が続きます。今日の詩篇は、苦しみから救い出して下さる主を賛美しています。

1〜4節
中学生のときに、地元から離れた中学に通いましたが、そのときに、クリスチャンのもつ行動パターンが世の同世代と違ったのか、いじめの対象になった記憶があります。そこまで、激しいいじめではなかったと今では思いますが、いつも、正しいことを行おうとする姿勢が周りからかわいくなく感じたのか、変な奴というレッテルを貼られて、相手にしてもらえなかったように思います。当時の自分は、とっつきにくいところもあったとは思いますが…。
そこで、多くの信仰者たちの祈りの支えもあり、乗り切れましたが、それは、相手と戦ったわけではありません。むしろ、いじめられた原因でもあった、正しいと思えることを徹底しました。成績やスポーツなどの競走では最善を尽くしました。正しいと思えることでは、一歩も引かず、一方で、自分で間違ったと感じることは、素直に謝るようにしました。自分で間違ったことはすんなり謝るのが良かったのか、関係は改善されていきました。
クリスチャンは神様の前に正しく歩もうとしても、それがなんだか気に入らなく感じられてしまうこともあります。それでも、主は正しい方です。主によって示されることも正しいことでしょう。悪しき者の道はどんなに楽で手っ取り早く見えても、やはり、続きません。主は守り、正しいことを行ってくれます。主に信頼して歩みましょう。

5〜8節
129篇はイスラエルにというよりも、神に逆らって生きる者の末路を話しています。
神様は、神を憎み、神の民、方法を憎むものには恥が与えられる方です。神様は悪を野放しにはされません。確かに最初はたくさん生えてきても伸びないうちに枯れていってしまう草のようです。実を結ぶこともありませんし、実を刈り取ろうとするものもいません。神様の御名で祝福しようというものは決して現れません。
主に逆らうというより、自分勝手に生きることは一見楽しく楽に思えるかもしれませんが、長期的に見ると、神様がはっきりとそのような民を退けられることを体験するでしょう。
主は主の民を守り、導かれることを賛美しましょう。

ーみことばの適用ー
主に従わないことはリスクが高いどころか失敗そのものであることを知り、今日も主が守ってくださることを知って、今日困難の中にあっても、主を賛美するようにします。

ー今日の祈りー
わたしの心を主で満たしてください。周りがいかに乾いていても、わたしは主の恵みで潤っていて、周りを潤すものとしてください。そして、主にだけ栄光がありますように。

[QT一言アドバイス] 2020年6月24日(水)

詩篇 128:1〜6
「主の道を歩む人は祝福を受けます」

ーみことばの黙想ー
主の宮に向かうときに賛美した詩篇、都上りの歌です。主の前に出られる喜びを感じながら黙想しましょう。

1〜4節
私たちは幸せを求めているように思いますが、幸せとはなんでしょうか? 富や名誉を持っていても幸福度が高いとは言いづらく、逆に、貧しくても、幸福度が高い場合もあります。当然、その逆もあり得ます。
聖書は、主を恐れて、主の道を歩む人は幸せだと明記しています。
一方、私たちはこんなに繰り返している単純な真理を無視することが多いのが事実です。その結果の私たちの社会を見てみましょう。日本も韓国も経済的にはトップレベル、しかし、残念ながら自殺率もトップレベルです。日本は言わずとも、韓国でさえ、その若者が主を恐れて歩んでいる人は減っています。簡潔にゆうと、幸せを必死で求めているにもかかわらず、不幸せになっている現状です。
日々、主に守られ、仕事をし、糧を得る喜びを知りましょう。家庭の中で、主を恐れる人は、妻も子供も宝物に感じます。逆に、主を恐れる家長のいる家の人々は幸せであるとも言えます。
ただし、主を恐れないのであれば、富や争いの有無に関係なく、幸福度が下がるとも言えます。生きている目的が見えないからです。
幸せの基本を見誤らないようにしましょう。

5〜6節
主の御前に出ていこうとするものは、自分が主を求めていける幸せを思い、悦に入っているのではなくて、他の人たちへの祝福を宣言していきます。
この歌の主語はいつも自分ではなく、“主が”であり、対象となっている相手は、“主を恐れ、主の道を歩む全ての人”であり、“あなた”です。
主に満たされている人は、まさに祝福が溢れているので、相手の祝福を考える余裕が生まれます。これは、単に富の話をしているわけではありません。しかも、単に状況が良いわけでもありません。なぜなら、神のいつくしみを見よと宣言しているからです。
状況がよくない時、争いがある時も、主のいつくしみと平和があることが祝福です。なぜなら、主は平和と祝福を与える方だからです。
状況によらずに、人々に主の祝福を宣言していくものとなりましょう。

ーみことばの適用ー
ともに、喜びの歌を歌って、主を前に出ていこうとするものが増し加えられるように、今日も喜びで主に仕えます。そして、ともに主の前に出るものに励ましを与えます。

ー今日の祈りー
主よ、私たちを主への賛美と喜び、祝福であふれさせてくださり、私だけでなく、周りのものと主に対する感謝が溢れるようにさせてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月23日(火)

詩篇 127:1〜5
「私たちの人生の建築家である神」

ーみことばの黙想ー
都上りの歌と題される詩篇。イスラエルの民が祭りのため皆でこれらの賛美を歌いながら、エルサレムを目指した姿を黙想します。今日はソロモンによる賛美です。

1〜2節
127篇はソロモンによって歌われたと記録されています。ソロモンというとイスラエル史上最大の富を謳歌した王として有名です。彼の指示のもと、最初の神殿も完成しています。当時としては一番立派な建物を作ったはずの人でしたが、どんな立派な建物を作っても、どれだけ町を真もても、どれだけ努力をしても、主がいなければ虚しいと告白しています。
努力すること自体は悪いことでは決してありません。良いことだと感じます。
しかし、努力自体が良いことというよりは、何のために労苦するかの方が重要です。悪に労苦しても虚しく、滅びるもののために労苦してもそれは徒労に終わってしまうからです。
私たちの人生の目的が何をしても滅びるもののために努力しても虚しくなります。
すべてを満たしてくださる主、全ての全てである主を迎えなければ、人生はどんなに栄えたように見えても虚しくなるのです。
今日、主の栄光のために労苦するものになりましょう。

3〜5節
子供は神様からのプレゼントです。私たちの人生を自分の欲望のままに消費してしまうのではなく、神様からのプレゼントによって霊的な祝福を増し加えていくように、霊的な導きによって育てていくべきです。
人生の中で、虚しいことと意味あることを理解できるものでありたいと願います。次世代に主を知ることを教えていくことは非常に重要です。これを忘れてしまうと、その人はみすみす神様からのプレゼントを無駄にしてしまうことになります。もちろん、その人自身は守られますが、それも虚しさを感じてしまうことです。
主の民が増し加えられていくことは、神様の計画です。私たちも次世代が霊的な再生産を行っていけるように、今日、意味ある労苦をすべきです。

ーみことばの適用ー
今日、自分が熱心に取り組んでいることが、主とともにしていることか確認します。主とともにすべきでないことをやめ、主のためにすることを熱心にしていきます。

ー今日の祈りー
主よ、本当に意味のあることを見分け、それに力を注いでいけるように助けてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月20日(土)

申命記 33:1〜17
「契約に基づいた惜しみない祝福」

ーみことばの黙想ー
イスラエルの12部属に対するモーセの祝福が記されています。
モーセの祝福を通して、神様の愛と恵みを分かち合います。

1〜7節
モーセが神がもろもろの民を愛する方だとし、民のかしらがイスラエルの部族とともに集うとき、主がエシュルン(愛おしいもの、イスラエルの別名)で王となられると主を賛美します。
一見、イスラエルの民だけのことのようにも思いますが、よく見ると、5節では「民がイスラエルの部族とともに集まったとき」と書いてあるので、この「民」と「イスラエルの部族」は区別されているようにも読めます。つまり、イスラエルの民とともに、他の民が集まるとき、人々は罪から解放され、真に愛おしいものとして回復し、神の国が地上において完成するというビジョンを賛美しています。ことの時はまだ、イスラエルがまず最初のモデルでメインですが、イスラエルを祝福の通り管として用い、すべての民が祝福されることを示唆しています。これは、後のイエス・キリストを示すものです。
ですから、現在、キリストとともにあるクリスチャンも祝福の通り管となるべきです。
ルベン族とユダ族に対するモーセの祝福が記されています。これらの12部族への祝福はかつて、その祖先である12人の息子たちを父ヤコブ(イスラエル)が祝福している内容(創世記49章)と対比されます。それを見ると、父ヤコブの時よりも総じて、明らかに祝福の内容が改善していることが受け取れます。また、順番に変化もみられます。
まず、長子であるルベンですが、ヤコブの時は、父を辱めた罪の言及がされますが、モーセの時は、繁栄までは行かないまでも滅びることなく続く永続の祝福を与えられます。
続いて、ユダについての祝福が語られます。ヤコブの時は、ユダから王があらわれる祝福がモーセは、自分の力で戦わず、神に従うときに勝利する祝福を与えています。ルベンは長子だから最初に順番が来るのはわかりますが、ヤコブの時と比べて、兄のシメオンやレビの子孫よりも早く祝福を受けます。これは、ユダからイエスが出てくる特別な祝福とかつて兄たちがした罪によるものかと思われます。

8〜17節
レビ族とベニヤ民族、ヨセフ族への祝福が記されます。
モーセの祝福では、シメオン族への祝福は省略されています。モーセの時もレビとシメオンは一緒に記されていて、彼らは、自分たちの妹が辱められたことに対する怒りを制することができず、争いを引き越し、祝福を受ける時にも関わらず、呪いを受けていました。しかし、モーセの時は、レビを神に仕え、神の導きを伺い、民からのささげ物を主に前に捧げる役割を任せ、財産の祝福までも与えられました。
次にベニヤミンです。一番末っ子が登場します。ヤコブの時、略奪するものとして表現されますが、モーセの時は主のそばに住まい、主の背中に背負われるとあります。これは、後に、ベニヤミン族は士師記で内戦により滅びそうになるが、王国の時代にユダとともにいることになることに理由がありそうです。順番が早くなっているのも意味を感じます。
今日の最後はヨセフです。ヨセフはヤコブの時もモーセの時も、富、子孫、威厳の祝福があります。これは、ヨセフの功績によるものです。
主はこれらの祝福を、これから神のことばに従い切れないとわかっている民に与えられます。主の愛の大きさとその忍耐、また、恵みに感謝しましょう。

ーみことばの適用ー
神様が私たちが未熟なのにも関わらず、祝福してくださることを覚え、今日も謙遜にすべきことに取り組みます。

ー今日の祈りー
主よ。あなたの恵みがあることを忘れないものとさせてください。自分の力だけで生きるおころかさを忘れず、主に感謝できるようにさせてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月19日(金)

申命記 32:37〜52
「国々の賛美にふさわしい生と死の主権者」

ーみことばの黙想ー
神様がモーセを通してイスラエル民に神のみこころを伝える歌の最終部分と、モーセ個人に対する神様の処置が宣告されます。
神様が未熟な者の従順を通して表される神様のビジョンを黙想し、恵みを分かち合います。

37〜47節
神様がモーセに歌わせた歌の最終部分です。43節までがモーセの歌です。
この歌の締めくくりは、民を本当に生かし、さばき、永遠である方は、この聖書の神以外にはないと賛美しています。この神様が、不従順な民をこらしめることを宣言しているとともに、主に対して傲慢になるなら、こらしめに用いられた民でさえ復讐の裁きは主がされます。正しいのは主であり、復讐と慰めることができるのも主だけです。
私たちは、神様に対する認識をしっかり保ち、主に信頼し、主の権威の中で生きましょう。
さて、44節ですが、これらの歌はヌンの子ホセア(ヨシュアのこと、民13:16)と一緒に歌い上げます。これは、世代交代を意味します。
最後に、語られたみことば は意味のない言葉ではなく、意味のある言葉、いのちに直結するどころか、いのちそのものだと宣言します。
モーセが伝えたいと思わされた内容は、一言でまとめると、主のことばを守り行うことです。

48〜52節
今まで、40年間主に忠実に仕えてきたモーセですが、主の適切な裁きがモーセに対してもなされます。モーセこそが従順を示し、神様がその正しさをモーセに示されました。モーセは民が入っていく土地を高地から見ることができるが入ることは許されず、死ぬことが宣告されます。
厳しいと言えば厳しい決定です。モーセは、かつて、民が荒野で水を求めて不平を言ったとき、主からのことばに応じて水を出しました。聖書の明確な記録によると2度目でしょう。1度目は神様の通りにしましたが、2度目の時は、水が出ると岩に命じればよかったのに、杖で2度打ちました。神はモーセの心に傲慢さが生じ、神のことばに従順しなかったことを見抜かれました。神様はモーセにそのことの責任をしっかり与え、もう一度従順できるチャンスを与えます。結果、モーセは従順し、カナンの地には入りません。
しかし、これは主の恵みだとも言えます。なぜなら、神はモーセにカナンの地を見させてくださいます。さらに、カナンの地に入ることはできませんでしたが、モーセは完全に神の宝の民に加えられていて、カナンの地どころか本当の神の国を受け継ぐことが宣言されているからです。しかも、かつて従順できなかった部分があったけれど、従順で地上の人生を終えていくことができるからです。
自分に任されたことに忠実に従い、それを止めるのも主に忠実に従う者が神のビジョンを見ます。今日の私たちも、自分が達成するかどうかは別として、神の国の実現のビジョンを見て、神に従い、働きをし、働きを譲ります。

ーみことばの適用ー
神様の働きは神様の働きです。主がやめなさいと言われればやめ、主がしなさいと言われたらするようにします。

ー今日の祈りー
主よ。自分の正義ではなく、みことば とみこころに従えるように助けてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月18日(木)

申命記 32:15〜36
「失敗の理由は神を捨てることです。」

ーみことばの黙想ー
モーセが神のことばを次世代に伝える歌が続いています。モーセは歌を用いて、理性的なだけでなく、情緒的にも神のみこころを伝えるように示されています。
民が神を捨てた結果、どのような状況に陥ったかが歌われています。

15〜26節
まず、ここで出てくる“エシュルン”とはイスラエルのことです。直訳すると“愛おしいもの”と言う意味で、申命記では、この後2箇所で、また、イザヤ書にもこの表現が出てきます。歌の中で出てくる言い換えでしょう。
さて、歌われている内容ですが、イスラエルの状況が良い時にイスラエルが神を捨て、偶像礼拝に走ったとされます。その結果、神様を怒らせてしまい、神様がイスラエルに災いを下し、すべての民を一掃して人々の記憶から消しされてしまうほどでした。
私たちは、主から離れしまっているいるなら、気付いていようがいまいが関係なく、滅んでしまいます。主から離れては何もすることができないと言うことです。直接的な理由が別に見えるので、私たちは目に見えることばかり考えますが、霊的に根本的に人が苦しむようになった原因は主を捨て、主から離れたからです。祝福が与えられているにもかかわらず、主に感謝するどころか、むしろ、捨ててしまうような愚かさも結局は罪のため、主の恵みが分からず、自分の成し遂げたと思うからです。
私たちは具体的に何をどうすれば良いのかを考える前に、主との関係を見直す必要があります。1日の始めに祈ること、1日の最後に祈ることは、その意味において非常に重要です。

27〜36節
モーセの歌が続きます。主は、主を捨てた民に対して、人を用いた懲らしめも与えます。しかし、その懲らしめに用いられたイスラエル以外の民が正しかったから用いられたわけではありません。彼ら自身も問題だらけでしたが、とりあえず、主が用いられただけの話です。しかし、彼らは自分たちが優れているからイスラエルに勝ったと錯覚してしまいます。しかし、イスラエルを懲らしめるために用いた民も神は取り除けられます。
結局、傲慢になったイスラエルも懲らしめられ、謙遜さを回復します。一方で、主が用いられ、イスラエルを懲らしめたが、自分たちも主に立ち返らないので、主は懲らしめに用いられた民も取り除けられます。結局、すべての民が高慢であったのが低くされます。その上で、主の民は神の守りを受けます。結局、主こそが偉大であることが表されます。
主こそが正しいお方なので、さばき、復讐、報復は神にしか本質的にできないことです。主を恐れ、主を愛するものとなりましょう。

ーみことばの適用ー
自分の状況を神のせいにも、環境のせいにもしないで、今日、悔い改めます。

ー今日の祈りー
主よ。すぐに傲慢になる私たちをお許しください。謙遜に主の前に悔い改めることのできる自分や民であるように助けてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月17日(水)

申命記 31:30〜32:14
「偉大な愛をもって導かれた神の恵みを思い出しましょう」

ーみことばの黙想ー
神様はモーセに知恵を与え、神の約束を文字による論理的な伝達方法だけではなく、歌によって情緒的、そして親しみやすくして伝えるようにされました。この賛美には、イスラエルの民に対して主が伝えようとしておられる御心が溢れていることを分かち合います。

30〜6節
歌の始めは、主から与えられたことばをすべての人が聞くように勧めることです。主のことばは雨露のように人々に知れ渡り、人が生きる上で必要なものです。モーセ自身も主の名を告げ知らせるものとして歩みますが、民に対しても、神に栄光を返すことを促しています。
まず、イスラエルの民が覚えておいて欲しい主に対する向き合い方を宣言しています。
次に、神様がどんな方であるかを伝えています。神様は完全、正しく、真実な方であることを宣言しています。
主がことばに従うのは、主が真実で主にこそ従うに値するからです。私たちは、主のことばに従わないで、誰の言葉に従うのでしょうか? それに、どれほどの信憑性があるのでしょうか? 主のことばは真実であるので、従うべきです。
しかし、民は自分たちの汚れのために、自ら神様との関係を損ねてしまう過ちを犯してしまうことを主は知っておられるようです。ですから、予め、主に従わない民に、主ご自身がどんな方であるのかを思い出すように忠告し、実際に問題があったときに、悔い改めることに気付けるようにされました。

7〜14節
これまでの歌に引き続き、主がどのような方で、具体的にイスラエルの民にどうのように接してこられたかを忘れないように、歌う詩が続いています。
主はずっとイスラエルの民を生まれる前から計画し、土地を与え、そこに到るように世話をし、丁寧に導かれました。もともと、偶像はなく、主こそが導いてくださいました。必要な食べ物も豊かに与えてくださいました。
私たちは、主がこれまでどのように私たちに接してくださったかを、みるならば、これからも主に頼るべきだということを悟ることができます。主は不可能を可能にし、必要を満たすどころか溢れさせてくださる方です。これからもそうです。
従って、主に委ねて歩むことができるように、祈りましょう。

ーみことばの適用ー
みことば を知識だけで覚えるのではなく、賛美し、生活で実践し、実感のあるものとして伝えます。

ー今日の祈りー
主よ、あなたの恵みは今日も豊かにあることを忘れず、今日も主と歩み、主に委ねて生きていけるように助けてください。

[QT一言アドバイス] 2020年6月16日(火)

申命記 31:19〜29
「不従順の結果を心に深く刻みましょう」

ーみことばの黙想ー
これまで、罪、救い、きよめ、悔い改め、そして、さばきと祝福など、神様がどのように人を罪から解放するのかという基本について示したモーセ五書のクラマックスです。モーセは神が与えてくれた救済計画をイスラエルの人々がこの先、どのように反応していくのかを示し、次期リーダーであるヨシュアを指名していく預言的聖書箇所です。

19〜23節
モーセは神様が与えてくれた救済と祝福の約束を人々が忘れないように、主の知恵で歌として次世代に引き継いでいくようにしました。
ただし、モーセが見通しているイスラエルの民の姿は楽観的ではなく、非常に悲観的です。どれだけ、神のみことばを伝える努力をしても、人々が不従順になり、神に逆らうことがわかっています。
これは、神の人に対する姿勢を象徴しているかのようです。そもそも、人が神に従えないことがわかっていても、愛と忍耐によって、最善のことを示させずにはいられないのです。人が良い霊性を持っているから救うのではなく、罪びとを忍耐と愛を持って救おうとされているのです。
残念ながら人々は従えませんし、私たちもどのような部分が多くあるかと思いますが、不従順な時に与えられる警告もまた、みことば通りなことを覚え、神の誠実さと愛を知り、悔い改めるようにしたいと願います。
モーセは、ヨシュアを次期指導者に指名します。ヨシュアを公然と励ましますが、これは、ヨシュア本人の心には、周りが思うよりも、弱さや恐れがあったように考えられます。しかし、ヨシュアはみことばに必死に従い、普通の人でありましたが、立派にイスラエルを導いていくことになります。

24〜29節
モーセは、きよさの回復を担う祭儀に携わるレビ人にも最後の忠告をしていきます。それは、主の約束の証拠である契約の箱のそばにこれらの忠告を忘れないようにおいておくことです。しかし、民は逆らうし、レビ人自身も逆らい主の怒りを招いてしまうことも預言しています。
私たちクリスチャンも主によって救われましたが、主のこらしめがあることも心に留めましょう。悔い改めを忘れたクリスチャンは、きよさを表さなければならない存在であるのに、むしろ汚れを表してしまうことになります。

ーみことばの適用ー
私たちが、主に従っていないことを感じたときに、素直に悔い改めることができるように主に求めます。

ー今日の祈りー
主よ、愚かな私たちが主から離れず、悔い改めることができるように助けてください。