[QT一言アドバイス] 2020年6月3日(水)

申命記 28:1〜6
「従順な人は祝福の源です」

ーみことばの黙想ー
主の言葉に聞き従うことによる祝福が記されている箇所です。今日は神の祝福について黙想し、恵みを分かち合っていきます。

1〜2節
これから、カナンの約束の地に入っていこうとするイスラエルの民に、歴史を思い出させ、律法を再確認し、そして、とにかく神のみことば を守るようにモーセが念を押している箇所です。
主の御声に聞き従えば、豊かな祝福が与えられるという約束を確認しています。ただし、ここで、注意したい事があります。これは、条件付きの約束です。ですから、契約違反があった場合、この約束は破棄されます。
これとは、別に無条件の約束があります。これは、救いの約束です。旧約聖書において、この救いの約束の答えは出ませんが、その片鱗が申命記のこの後の箇所やそのほかの聖書箇所の随所に見られます。答えはイエス・キリストまで待たなければなりません。
では、この祝福とはなんでしょうか? この祝福とは、根本的な罪の解決の話ではありません。罪の解決は、人にはできないことで、恵みとあわれみによる神のみわざによってしか与えられません。現に、申命記を聞いている世代のイスラエル人は、以前よりはましになったものの、”御声に確かに聞き従う”ことはすでに、できていません。しかし、神の民として、神は見放されません。それは、神様のあわれみによることです。だから、誇ってはいけません。
ですから、恵みは神の民とされることに加わる恵みです。神様は私たちを祝福で溢れさせてくださる方です。主の恵みによって救われた私たちですから、大胆に主に感謝し、聞き従い、祝福をいただき神の栄光を表すものとなりましょう。

3〜6節
神様の祝福はどこにいても私たちを満たされます。状況、環境ではなく、主が祝福されるものがいることが大切です。それは日常生活の細部にまで至ります。
私たちは、みことば に従わないならば、逆にのろいですが、元々、罪のために呪われたものです。ですから、祝福というものは特別なものです。ですから、主に従うものがいないということになれば、祝福に預かることができません。ですから、私たちは祝福の通路になりましょう。この祝福は神の栄光、つまり、無条件の愛を表すために、表されるものです。私たち自身が町でも野でも神の祝福を示していけるように、主のことばに従いましょう。そうすれば、その人がいることによってその場所が祝福の場に変えられていくことを信じます。同時に、私たちが祝福をもって歩まなければ、町にも野にも祝福がないことを知りましょう。責任は重大です。

ーみことばの適用ー
主によって救われたからこそ、主に従って生き、主の栄光を表し、イエスを信じるものが増し加えられるように仕えます。今日も、町でも野でも、祝福は主が与えてくださったと証します。

ー今日の祈りー
神様、祝福の源は主だけです。しかし、主に満たされている私を用いて、本当の祝福である神様に目を向ける人が一人でも現れるようにしてください。今日、接する、家族、同僚など身近な人から、今、世で苦しみながら生きている人に至るまで、祝福が伝えられますように。

[QT一言アドバイス] 2020年6月2日(火)

申命記 27:11〜26
「神のすべてのことばに『アーメン』と言って従いましょう」

ーみことばの黙想ー
申命記はイスラエルの新しい世代に神を信じる大切さと律法を守ることをまとめて教えています。特に律法の教えの一番最後にかかっている場所が今日の箇所です。
民が二つの山に登り、祝福と呪いを確認するために、誓いの告白を求められている場面です。

11〜19節
神は民を二つに分けられました。これは、それぞれの部族がすでに祝福されているのと、呪われていいると短絡的に考えるよりも、それが決定的な差であることを体験的に感じさせるために行われたことであると考えるべきです。
私たちは、祝福と呪いは何かつながっていて、たとえ呪われようなことでも、何とかすれば、祝福に紛れ込めるのではないかと考えてしまいがちです。しかし、はっきりと違う山に登らされることを考えると、祝福と呪いの差は決定的です。私たちは神に忌み嫌われるべきことをすることがどれほどのことなのか、よく知る必要があります。同時にそれを、事前に体験的に知らせてくださる神の哀れみに感謝すべきです。
偶像礼拝、親の軽蔑、主が与えられた地の侵略、障害者をその弱さを通して攻撃すること、社会的な弱者を不当に扱うことへの呪いがあることを誓わされます。
世はすでに罪によって呪われていますが、神の栄光を表すために選ばれたイスラエルの民にとっては、栄光どころか罪を見せてしまうのであるならば、もっとさらに厳しく呪われるということです。呪いが強調されているのは、私たちは自分たちの罪に対しては甘くなりがちです。しかし、罪はそんなに甘くありません。

20〜26節
呪いに関する誓いが続きます。後半は人に隠れた性的な問題、殺人、賄賂の問題についての呪いの誓いが記されています。
性的な問題は、現代の感覚でも、驚くべきほどの乱れがあるように感じます。これを考えると性的な問題は、時代に関係なく、普遍的に乱れているからこそ、こんな規定があったと考えることができます。ちなみに、性的な関係は主の祝福される関係であれば、祝福以外の何者でもありませんが、それを夫婦以外で用いるならば、それは神の権威を汚すようなものです。主はそれを呪われていることを覚えましょう。
殺人と賄賂についても触れられています。これらのことは、私たちの生活の中で生じやすいことだからこそ、警告されていると考えられます。
これらのこれらのことは、私たちの隠れたところで行われることが多いです。主は心を見られます。逆に言うと、私たちの隠れたところにこそ神の教えが必要です。
私たちは、人の目がないところでは、自分をよく見せることは可能ですが、一番重要なことは隠れたところに罪がないことです。隠れたところに罪がなければ、人の目に見えるところにあるところは必然的に良くなります。ところが、私たちがしていることはその逆であることが多いようです。

ーみことばの適用ー
罪の問題は甘くないことを知り、今日、人に知られない所で神の栄光を表します。

ー今日の祈りー
どうぞ、罪の深刻さを忘れないようにさせてください。

[QT一言アドバイス] 2020年5月30日(土)

申命記 26:1〜11
「最高のものを下さった救い主に初物によって最上の感謝を」

ーみことばの黙想ー
申命記も後半部分に来ています。神は人を罪から救い、神のみこころがなされる神の国の回復をしようとされています。そのはじめとして、イスラエルの民を選び、土地を与えようとし、神をおそれ従う祝福を示されました。まだ、これらの神の国の実現はイエス・キリストを待たなければなりませんが、旧約聖書における神の国の祝福の約束、子孫、土地、そして、神を恐れるものを祝福するアブラハムの契約に対して、一時的な結論を表していきます。

1〜4節
神様はイスラエルの民にいよいよ、これから土地を与えようとされます。土地が与えられれば、農耕作する事ができます。収穫は土地が与えられたことを実感できる瞬間でもあります。
これまでのイスラエルの民はマナを食べ、荒野で水を得ていましたから、日々の食事から神によって生かされていることを実感できました。しかし、土地を与えられて、穀物を育てる事ができるようになったのも、神が導いてくださったからなのですが、普段、人が収穫のために作業をすると、あたかも自分たちが成し遂げたように感じてしまいます。例え、熱心に働いても、主が実りを与えてくださらなければ、収穫までも辿り着けないのに、神を忘れてしまいがちで、しかも、貧富の差も起きやすくなります。
だから、この土地に入り、神の収穫の初物の一部は、神のみこころの通りに、神が指定される場所で主に捧げ、主が成し遂げてくださったことを忘れず、むしろ感謝を捧げるのです。

5〜11節
神は、エジプトにイスラエルが行ったときは70人でしたが、神様は約束の通り、イスラエルを祝福してくださって、エジプトを出るときには、男だけで60万人、民全体では200万になろうかというほど、民を増し加えてくださいました。
人が支配する国の束縛から神の支配される国へと自由と解放を与えられました。これは、偶像、罪、人の力から抜け出して、唯一なる神、きよさ、神の力に頼るものとされました。
そして、与えられた地で、収穫を得て、それを捧げ、主を礼拝します。主が成し遂げられたことを宣言するためです。
そして、捧げられたものは、祭司であるレビ人や外国人である寄留者など生活基盤が弱い人たちも皆、すべての民が喜べるように恵みを分かち合います。
私たち、普段の生活から、まず神を第一としましょう。そして、神に初物を捧げましょう。私たちが得た初物は自分の努力の結果以上に神によるものが大きいことを覚えましょう。そして、まだ、神様を知らない人も神の前で喜べるように用いましょう。

ーみことばの適用ー
主を覚え、主にささげ物をし、主を信じ喜べる人が増し加えられるように努めます。

ー今日の祈りー
神様、私の生活の中で、ささげ物も、言動も神様の素晴らしさを表すものであるように助けてください。